過去を見つめて 未来を紡ぐ


「生き延びること、それが一番大切なこと」、2004年南京の街で出逢った老婆から託されたこの言葉が、活動の原点であり、大学の講義シリーズのタイトルにもなった「アジアでがんを生き延びる」という奇妙なフレーズが生まれた瞬間でした。「アジアでがんを生き延びる」とは「アジアをがんで生き延びる」という含意を包摂しています。私たちがアジアとどう向きあっていくべきか、過去と未来をみつめて、その問いを探り当てるために「アジアのがん」という重い共有課題を架橋として置いてみたのです。

今でこそ「持続可能性」という言葉は当たり前の言葉ですが、「生き延びること」当時はその言葉の意味することもよくわからず、なにができるのかそれを探り当てようと、この言葉をたよりに、アジア各地を回りました。

がんという病には、遺伝的素因、生活習慣など長い時間軸の中での、ひとの暮らしの営みや文化が色濃く影を落としています。「がんになったら、布団をかぶって死ぬのをまつだけ、孫の学費を使えない」中朝国境の山深い村で老人は呟き、「私たちの国はがん研究をできる国になったのだ」とインドネシアの研究者は胸をはる。治療の標準化・ガイドラインのアジアでの普及を目指す動きの中、欧米の癌医療のレベルを目指して参加する国際会議の学会で素晴らしい発表する研究者に、ほかの地域ではどのような感じでしょうと聞くと、自分だけだと、顔を曇らせる。一方国内では、第一線の研究者からは国際援助に関わっている暇はないといわれ、企業からはアジアにはごみデータしかないから、アジアのがんを研究しているなど、表立ってはいいにくいとまで言われました。そんな時代でした。

そのころ、私たちは、がん情報の社会における扱いを考えたいと、アジアがん情報ネットワーク会議を重ねておりました。21世紀に入り、同時多発テロの後、個人情報が公益の名のもとに収集されることが国際社会で顕在化していった流れの中で、OECDは独自のルールを打ち立て個人情報保護の制度設計をはじめていました。「よりよく生きていこう」という人間の欲望の果てを考えた時、個人情報をあつめそれを土台に未来予測をしていく社会をどう考えるか、私たちはどんな社会を望むのか、それを考えたいとおもい、2002年Natureのコレスポンデンスに、連名で投稿をしました。

https://www.nature.com/articles/417689a

そうした仲間たちと、アジアのいのちの繋がりののなか、がんという病に向き合い、語り合うフォーラムがほしいとおもいました。このフォーラムのはじまりです。

今回、ホームページをリニューアルするにあたり、過去の情報の整理をしながらおもったことは、なにも課題はかわることなく、むしろそれがより先鋭にうかびあがってきているということです。旧サイトから存在している、「アジアがんフォーラムとは」とは、亡くなられた赤座英之先生と増井徹先生の3人で、2009年にアジア太平洋癌学会を開く前に、軸を決めようと長い時間をかけてつくりあげたものですが、今もこの方針、目指すところは、一ミリもかわってはおりません。「アジアでなにを実現したいのか」、赤座先生が最期まで投げかけられた問いは、いまも未来に開かれている。

2010年からは、東京大学においてアカデミアとしての活動、2013年からはUICC-AROとしての活動に、概念資源を提供し続けてきました。困難はひととひとを結びつける。アジアでは、それぞれの歴史を踏まえ、グローバリゼーションとナショナリズムのせめぎ合いの様々な要因によって多様な癌医療の発展をみせている。過去をみつめて未来を紡ぐ、アジアのいのちの繋がりについて、語りを重ねるフォーラムであり続けたいと思います。

2021年12月1日
一般社団法人アジアがんフォーラム 代表理事
河原ノリエ

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